昔流行ったファミコンで考える”ジェネレーションギャップ”と価値観の共有とは?

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もしあなたが20代だとしたらファミリーコンピューター(略してファミコン)というゲーム機の存在自体知らないかもしれません…
1983年、今から30年以上も前に発売されたゲーム機の元祖的な位置づけがこのファミコンです

まだ家庭用のゲーム機もあまり普及していなかったこともあり
当時はとても画期的でいろいろなゲームソフトが発売されました
そんなファミコンですが、今のゲームほど
親切じゃないし
理不尽なことも多くて
「クリアなんてとてもじゃないけどできないよ!」
という一部から クソゲー と呼ばれるゲームも存在していました
(いまもあるかもしれないですけど(笑))

具体的に クソゲー というのがどういうものか?

ジャンプして着地しても死なないけど、イスから降りるくらいの高さから落ちたら死んじゃう…

画面の背景に飛んでくる弾が隠れてしまってゲームが始まったと思ったらいつのまにか死んじゃう…

ゲームをはじめたはいいけどいったい何をしたらいいのかすらわからない…

とまぁ、こんな感じのどこに面白みを感じたらいいのか
疑問に感じるくらい理不尽な仕上がりのゲームがいくつも存在していたわけです…

ちなみに
「あ~やられたぁ、ゲームオーバー!やん…」
そのあと 続きから出来るわけじゃなく

「はい!最初からやり直し!!」
こんなのばっかでした…

え~っと… 別にゲームの紹介をしたくてこんな話をしているワケではありません(笑)
このクソゲーから学んだ重要なこと それが今回の 本題 です♪

当時、子供だった自分としては
こんな理不尽でルールもなにもあったもんじゃない…
そんな環境設定されているゲームの中で
何度も やられてはチャレンジして
やられてはチャレンジして
「はい!最初からやり直し!!」ってなっても
「くっそ~、次こそは絶対あそこでやられないように進んでやる!!!」
とめげずに諦めずにチャレンジしまくってたわけです。

そのゲームを作った人に文句言うわけにもいきませんし
文句言ったからルールやゲームの仕様が変わるわけでもありません
だからひたすら
「どうやったら進めるようになるのか?」
失敗を繰り返して、どうやったら進めるかを考えて
練習して練習して進めるようにしていったわけです

これって【自己責任マインド】を培うことができる環境だったんです

人のせいにも環境のせいにもできない
自分が下手だから進めない
だから練習するしかない
ゲームのうまい友達のプレイを見て、やり方を学んだりもしてました
うまくなるためには、ひたすら自分で練習するか
うまい友達がやっているのを見せてもらうか
攻略本やゲーム雑誌を見るくらいしかなかったそんな感じです
今みたいにYouTubeなんてものはありませんでしたから(^^;

ただクソゲーと呼ばれているゲームソフト自体を
「なんだこのつまらないゲームは!」とそのゲームのせいにした時点で負けです
そんなクソゲーでも クリアしている友達 とかいたんです…

「なんでそんなゲームがクリアできるんだ?」
年齢も変わりませんし
同じ子供で環境も同じです

もしも上手い下手で差がついていたとしたら

「失敗とチャレンジの数」
「できる人と自分の差に気が付いて改善」
「できるようになるまであきらめなかった精神」

どうしても、人や環境のせいにしてしまう人が目につきます
それは特定の世代に限った話ではないと思います
とかく環境のせいにしてしまう世代は
そんな世代が育ってきた環境自体がそうさせているのかもしれない
最近そう感じました

理不尽であろうが
無理矢理でもなんでもこのルールの中でやるしかないんだよ!
だからできるようになるまでひたすらやり続けるんだよ!
できるようになりたかったら出来る人を観察して やり方は盗むんだ!

ある世代の方たちが指導するときによく聞くセリフです…
でも育ってきた環境が違いますよ 挙句の果てには
環境を整えられていない側にも責任を問われることもある始末です…

ただ、どんな環境で育ってこようが
どちらも他人のせいにしたり環境のせいにしたりしていて
は間違いなく 自己成長 はありえません
違う世代同士でお互いを尊重して相手の考え方や価値観をひていすることなく

【うまくいったら他人のおかげ 失敗したら自分のせい】
そう考えて歩みよっていけたらいいのになと思います

あまりゲームをやられない方にとっては チンプンカンプン だったかもしれません(^^;
最後まで読んでいただいてありがとうございます

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